【地方に関わるきっかけプログラムVol.1】「還暦以上口出すな」の復興まちづくり

2017.08.17

宮城県女川町

東日本大震災により、壊滅的な被害を受けた宮城県女川町は、復興のトップランナーとして、世界中から視察が訪れる先進的なまちへと生まれ変わろうとしています。NPO法人アスヘノキボウ主催「地方に関わるきっかけプログラム」では、その復興まちづくりのキーパーソンとして活躍している女川町商工会 参事の青山貴博さんにお話を聞きました。

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想像もできなかった大津波

女川町を語るのに切り離せないのが、2011年3月11日の東日本大震災です。震源地からわずか100キロ程度の女川は激しく揺れ、約20メートルの巨大な津波がまちを襲いました。

14時46分
7分くらいの揺れだったでしょうか。電柱がメトロノームのように揺れるなか、近所の人たちが慌てて家を飛び出て道路に集まってきました。

宮城県民は「30年以内に宮城県沖地震が必ず来る」という話を必ず聞かされているので、「これが宮城県沖地震か」とみんな思ったんですよね。「かなり大きい地震だった。これでしばらくは地震が来ないだろうから、家を建て替えようか」なんて話をしながら、それぞれ自宅へ帰っていきました。

15時6分
このときの揺れは非常に恐ろしかった。立つことも這うこともできず、私は事務所の床で転がりながら、どうにか壁を伝い、必死で外に出ました。「今の揺れはちょっとおかしくないか?」と、またみんなが道路に集まってきたところで、役場の防災無線が始まったのです。

「大津波警報、津波の予想される高さは3メートルです」

「大津波ってなんだ?」と話していると、すぐに予想高さは6メートルに訂正され、その後、「逃げろー! 逃げろー!」という叫び声を最後に、防災無線はブチっと切れました。もう、地域の人はパニックです。高台にある役場からは何かが見えている、つまり、津波が来たことはわかった。ただ、この時点では、どんな津波が来るのかはわかりませんでした。

私がいた商工会は海のすぐそば。ひとまず地域の人と女性職員を高台に逃がして、男性職員2名と逃げ遅れた1人の4人で、鉄筋コンクリート4階建ての商工会に残りました。しかしすぐに、見たこともない津波が押し寄せ、あっという間に1階、2階、3階と波に飲み込まれ、ついには4階、そして屋上にまで迫ってきました。

私が助かったのは、屋上にたまたま高さ6メートルくらいの貯水タンクがあったからなんです。タンクのてっぺんまで登ってギリギリという状態で、流されていく家や人、船を目の前にして、「次は自分だ」と死を覚悟しましたね。それでも奇跡的に助かり、翌朝どうにか自力で事務所を脱出しました。

津波被害により、約70%は壊滅するなど甚大な被害を受けた女川。だけど、震災からわずか1ヶ月後、次の世代に残す未来のまちをつくるために、「女川町復興連絡協議会(以降、FRK)」という任意の団体が立ち上がったのです。

「還暦以上口出すな」の、まちづくり

2011年4月19日
震災から約1ヶ月のこの日、商工会会長であり蒲鉾本舗 高政の社長、高橋正典さんが旗振り役となり、産業団体を中心に町民や各団体を集めてFRKの設立総会を開きました。

会長は、「業界やテリトリーの壁を超えて、みんなで一緒にまちの未来を考えよう、100年先の子どもたちに残せる、誇れるまちを作ろう」と話し始めました。

「復興には長い時間がかかるから、まちづくりの計画・企画・活動は将来を担う30代や40代に任せたい。私はもう還暦で、これまでの成功体験や経験から、考え方も手法も決まっているし、固定観念も連携する人の輪も固まっている。果たして、そういう人が先頭に立っていいのだろうか。

せっかく新しいまちを作ろうとしているのに、旧態依然のまちを作ってしまったら意味がない。だから、20年後を担う30代40代に任せたい。私同様、60代以上は口を出さず、50代は口を出しても手は出さないまちづくりをしよう。もちろん、知恵は貸すし、お金が必要なら集め、難題時は矢面に立つ。女川は、“還暦以上、口を出すな”のまちづくりをやります」

これが女川町復興の大宣言でした。もちろん、総会には会長よりも年上の70代、80代の長老たちはたくさんいました。震災前だったら、60代以上は口を出すななんて言ったら怒られたでしょう。でもこのときは、長老たちも手を叩いて「よく言った」と賛同していました。

こうして始まった、女川の「未来につながるまちづくり」。約50人の若手が組織を作り、私もFRKの事務局長として活動を牽引しました。掲げたのは、「住み残る、住み戻る、住み来たる」まちを作ること。中でも注力しているのは、「住み来たる」です。女川ときっかけを持ち、女川を選んでもらいたい。その思いで活動を進めた結果、震災以降、ありがたいことに数十名の若者が移住してくれています。

FRKは住民、行政、産業、議会のハブに

FRKの役割は、地域住民と行政、産業界、議会を取りまとめて、ハブになり、合意形成を取ってスピーディーに行動を起こすこと。強烈なリーダーシップを持つ会長の元、若い人の積極的な動きを織り交ぜながら行う、公民連携の「4輪駆動のまちづくり」を推進してきました。

そのグランドデザインとして描いたのは、防潮堤を作らずに、まちごと防潮堤の高さまで土盛りするというプラン。海で生まれて海で育ち、海を生業にしてきた女川は、海に流されてしまったけれど、それでも海と付き合っていかないといけない。100年に一度の津波は4.4メートルだと言われているので、東日本大震災で1メートル地盤沈下した女川全体を5.4メートル上げて、そこに新しいまちをつくるという決断をしました。

FRKによるまちづくりが進んで1年が経ったころ、当時県会議員でFRKの顧問だった現町長の須田さんは、周りの説得もあって町長に就任。町長は、「FRKだけでなく、もっと広く住民の意見を聞きたい」と、まちづくりワーキンググループやデザイン会議を発足。そこにFRKのメンバーはもちろん、さまざまな人が参加するまちづくりを始めたため、FRK単体での活動は休止しました。

未来につながるコンパクトシティ

女川町は、その後2014年に「公民連携室」を立ち上げ、縦割り行政を横串しで対応し、民間の要望に即対応できる仕組みを作りました。これができたのも、FRKが2011年から公民連携の「四輪駆動のまちづくり」を始めて、柔軟に連携する素地を作っていたから。描いたゴールに向かって、さまざまな立場の若者たちが力強く行動を起こしたからだと思っています。

数年後には、FRK発足からこれまで、みんなが望んだ「コンパクトシティ」が出来上がる予定です。駅、商店街、行政、学校、病院、観光、住宅が、ぎゅっとまとまった、女川らしい小さなまち。誰かが勝手に作ったのではなく、みんなで未来を考えて作っている、ハートの込もったこのまちを、子どもたちに残したいと思っています。

(文:田村朋美、写真:増山友寛、女川町ご提供)

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