【地方に関わるきっかけプログラムVol.2】まちづくりは活動ではなく継続的な事業

2017.08.17

宮城県女川町

ドキュメンタリードラマ「河北新報のいちばん長い日」の登場人物にもなった、有限会社梅丸新聞店 代表取締役の阿部喜英さん。阿部さんは新聞店のみならず、震災後は復幸まちづくり女川合同会社を立ち上げ、まちづくりの要として活躍されています。NPO法人アスヘノキボウ主催「地方に関わるきっかけプログラム」で、女川のまちづくりについて阿部さんにお話を聞きました。

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経営的視点で地域の変革を実現。「千年に一度のまちづくり」の立役者、アスヘノキボウとは

紙の新聞が重要なインフラに

東日本大震災で、私は自宅も新聞販売店も流されました。電気や水道などすべてのライフラインが止まり、情報も断絶。しかも、町内の道路は津波による瓦礫で寸断され、女川町は陸の孤島状態になりました。

震災の2日後、避難所になっていた女川町の総合体育館に立ち寄ったとき、私は驚きの光景を目にしました。警察か自衛隊の方が持ってきたであろう新聞が壁一面に貼ってあり、それをみんなが食い入るように見ていたのです。

壊滅状態だった女川町

壊滅状態だった女川町

停電でテレビもインターネットも断絶されていた当時、情報を取得する手段は新聞しかない。それに気づいた私は、3月14日の午前、石巻市鹿又の新聞販売店まで新聞を取りに行き、災害対策本部や避難所を回って、新聞配達を開始。これによって、震災の全容や自身の置かれている状況を多くの人が把握できたように思います。

その日の午後に仙台へ向かい、自身の安否連絡とともに、配達する新聞を用意してほしいことを河北新報社に伝え、翌日の早朝、新聞輸送のトラックに同乗して女川へ戻りました。

また、「女川壊滅」という4文字以外はテレビでもラジオでも流れてこない状態だったので、少しでも女川の現状が伝わるように、電波がつながるタイミングを見計らっては、Twitterを使って情報発信をしました。

この高さまで津波がきました

この高さまで津波がきました

元に戻すのではなく、新しいまちをつくる

女川町は漁業のまちとして栄えてきた歴史があります。もともとカツオの水揚げが多かった漁業は養殖や定置網へと変わり、水産加工も鰹節から冷凍魚の加工に変わるなど、時代に合わせて業態を変えてきました。

昭和50年代になると、200海里問題などで漁業だけに頼れなくなり、違う産業も必要だと、原子力発電所を誘致。海からだけでなく陸地からも人が来るようになり、ヒトモノカネが回り出したことで、地元の商業も活性化し、スポーツ施設や温泉施設などの大きな箱物もできました。

こうして変化を受け入れながら発展してきた女川ですが、多くの地方と同様に、震災前から少子高齢化や人口減少など、たくさんの課題を抱えていて、そこに危機感を抱く人が多くいました。たしかに、震災によって人口は大きく減少しましたが、それは震災がなくても起きていたことです。

だからこそ、まちを元に戻すのではなく、今までの課題を解決できる新しいまちを作ろうと、2011年4月、産業界を中心に立ち上がった女川町復興連絡協議会(FRK)が行政や議会と連携し、復興まちづくりへの提言を行いました。

賑やかしの活動ではなく、継続する事業を

まちづくりを進める上で、非常に参考になったのが、2012年7月〜9月に参加した、(一社)公民連携事業機構主催の「復興まちづくりブートキャンプ」です。当初はFRKを中心とした有志での参加でしたが、年を重ねる毎に、民間事業者や役場の職員、町長など、まちの中心メンバーみんなで参加。岩手県紫波町のオガールプロジェクトを例に、公民連携によるまちづくりを学びました。

ここで得られたキーワードは、
・津波で価値を棄損したエリアの価値を、再び上げていくことが復興まちづくりであること
・消費を目的としない人をいかに集めていくかが重要であること
・行政は民間の感覚を持ち、民間もパブリックマインドを持つこと
・補助金に依存しないこと
・無い物ねだりではなく、あるもの探しをし、小さな事業から実行すること
・賑やかしの活動ではなく、持続性のある事業として継続させること
・右手に志を持ち、左手でそろばん勘定をすること
・そこに住む覚悟を決めた人が自らリスクを負ってまちづくりを行うこと。

この学びを受けて、ブートキャンプに参加したメンバーで、同年9月に復幸まちづくり女川合同会社を設立。活動ではなく事業としてのまちづくりとして、現在も女川町水産業体験館あがいんステーションを拠点に、水産加工業の失われた販路開拓、他地域や都市部との交流人口の創出、女川の水産加工品のブランド化などに取り組んでいます。

あがいんステーションでは体験が可能

あがいんステーションでは体験が可能

そして、2014年には、女川町商工会、女川町、女川町観光協会、女川魚市場買受人協同組合が出資し、女川みらい創造株式会社を設立。復幸まちづくり女川合同会社からも出資をした上で、私と岡の2名が役員となりました。

この会社のミッションは、シャッター通りを作らない、持続可能なまちづくりのためのエリアマネジメントを担うこと。ただ設立当時は、女川の関係者は本業の再建に忙殺されている状況だったので、実質のマネジメントを女川のサッカーチーム コバルトーレ女川GMの近江弘一さんにお願いし、2015年にはテナント型商店街「シーパルピア女川」を、2016年には地元市場ハマテラスをオープンさせました。

シーパルピア女川

シーパルピア女川

新しいスタートが世界一生まれるまちへ

まちづくりに大切なのは、「消費活動を目的としない人」にたくさん来てもらうこと。人が集まれば、必然的に飲食店などのサービス産業が発生します。するとエリアに活気が生まれ、不動産価値は高まっていく。この順番を間違えてしまうと、まちづくりはうまくいかないと思います。

女川は、偶然だったとは思いますが、その順番通りに復興していると思います。震災後にボランティアを含め、女川と関わりたい人が訪れるようになり、仮設商店街ができ、そこで新たな商売が生まれ、活気が生まれた。さらに、「女川なら、何か新しいチャレンジができそうだ」と、町内外の人が女川で起業し始めました。

駅前商業エリアができてからは、防潮堤に遮られない、海を一望出来るレンガみちのプロムナードを中心とした居心地の良い空間に、県内外から多くのお客様に足を運んでもらっています。2020年には、海岸の前に家族連れや釣り客が楽しめる広場が完成予定。この広場は津波の際には緩衝帯となり、また嵩上げされた土地の価値を上げる空間ともなります。

三陸石鹸工房KURIYA

三陸石鹸工房KURIYA

復興事業は完了したら終わりではなく、そこからが始まりです。「新しいスタートが世界一生まれるまちへ」というキャッチフレーズで、小さな点が次々とつながって、大きな輪になり、復興まちづくりを続けている女川。まだ道半ばですが、公民連携で多様な人をたくさん巻き込みながら、100年先の子どもたちに残せるまちを作っています。

女川はどうなっているのか、少しでも気になったら、ぜひ遊びに来てくださいね。

(文:田村朋美、写真:増山友寛、女川町ご提供)

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